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一茶庵手打ちそば・うどん教室では手打ちそば店開業をサポートしています。

TEL. 045-453-7756

〒221-0044 神奈川県横浜市神奈川区東神奈川1-2-7MSビル101

手打ちそば店開業に向けて確かなそば打ち技術を身につけることができます。

一茶庵創業 脱サラからの蕎麦屋開業

一茶庵は大正15年に新宿にて創業しました。創業者・片倉康雄の年齢は22歳。当時、蕎麦屋を独立開業するには何年もの修行が必要だった時代でしたが、わずか1週間程度の期間そば屋で働いたという状態でした。

それ以前の職業は会計士。いわゆる「脱サラ」だった訳ですが、なぜそば屋を目指そうと思ったのか?村一番のそば打ち名人だった母親が作った蕎麦の味が忘れられず自分でも作りたかったというのが理由のようです。

大正15年2月3日、新宿の現在のアルタ脇の食堂横丁の一角で一茶庵は産声を上げます。一茶庵という屋号の由来についてはこの年が俳人小林一茶の没後100年目にあたり そばとも縁が深い一茶にあやかって名付けたとされています。

さて開店したものの、わずか1週間程度の修業で会得したそばの評判は当然よくありませんでした

師との出会い

のちに著書でも語っていますが、お客さまを「ごひいきさん」「普通の客」「師客」と3種類に分けて、とくに味・ 技術に小言を言ってくる「師客」からの批評を糧として精進し続け、その後は麦飯からヒントを得て「そばとろ」をヒットさせて店の方も徐々に評判になっていきます。

それと同時に北大路魯山人、俳人の小泉迂外、作家の小林蹴月、長谷川如是閑ら文化人と知り合いますが なかでも後年師弟の間柄となったのが高岸拓川という文士でした。そして魯山人の影響を受け陶器、漆器等器作りにも興味を持ち始めます。

大森への移転と戦争の影響

昭和8年には新宿の店を譲り大森に移転。東京湾で採れる新鮮な魚介類と水質の良い井戸を使ってそばを提供、店は更に繁盛していきます。

昭和17年、戦争の影響でそば粉が思うように手に入らなくなるとやむを得ず大森の店を閉店、浦和に転居します。終戦後は映画館の支配人などを経験し、一旦そばの世界から離れますが、昭和23年頃には日本工業倶楽部の例会でそばを打つようになり、25年頃から新宿「馬上杯」で支配人をつとめます。この時に陶芸家・加藤唐九郎、作家・深沢七郎らと知り合いました。

一茶庵の再開とそば打ち技術の普及

昭和29年4月には栃木県足利市にて一茶庵を再開。これは以前、日本工業倶楽部の例会でそばを打っていた関係で同倶楽部のメンバーだった足利市長・木村浅七の要請によるものでした。ここに後年「足利詣で」という言葉も生まれた足利一茶庵が誕生したのです。 その後昭和36年に西神田、38年に浜松、39年に桐生、44年に宇都宮と支店を息子・娘に任せる形で開店します。

さらには後進の指導、手打そば技術の普及にも力を入れ昭和48年には当教室の原形となる「日本そば大学」を 開講。上野の東天紅でおこなわれていた「東天紅料理学苑」の講座のうちのひとつとして食味評論家の多田鉄之助と共に開講しました。(その後は健康上の理由により講座は終了しますが、次男・片倉英晴が後を引き継ぐ形で昭和60年「一茶庵手打そば・うどん教室」を開講)

昭和58年にはこれまで自身が培った技術のすべてを記した「片倉康雄・手打そばの技術」を刊行。現在ではそばの関連書が多数刊行されていますが、当時としては大変珍しいそばの技術書でした。

平成7年9月10日足利市日赤病院にて死去。享年91歳。翌年、生前創作された陶器・漆器・そば道具・書などを集めた「友蕎子片倉康雄遺作展」が開催されました。

※文中敬称略  参考:蕎麦と生きる(岩崎信也著・柴田書店) 片倉康雄・手打ちそばの技術 (旭屋出版)

受け継いできた技術を皆様にお教えしていきます

1985年に「一茶庵手打ちそば・うどん教室」としてスタートしてからは場所を変えながら、1999年より現在の横浜にて開講しています。そば教室のパイオニアとしてこれまでに多くの卒業生を輩出し、全国各地でそば店を営業されています。

創業者・片倉康雄は異業種からのそば店開業だったことで、習得に長い年月を必要とする「経験」や「勘」に頼らない数字などを活かした形で技術を習得することを確立させました。

一茶庵手打ちそば・うどん教室でもそば打ちや汁を作る際には、このように具体的な数字などを使い未経験者の方でも短期間で覚えやすい内容となっています。


一茶庵手打ちそばうどん教室プロコースでは教室見学・資料請求を受け付けています