昭和8年には新宿の店を譲り大森に移転。東京湾で採れる新鮮な魚介類と水質の良い井戸を使ってそばを提供、店は更に繁盛していきます。
昭和17年、戦争の影響からそば粉が思うように手に入らなくなるとやむを得ず大森の店を閉店、浦和に転居します。終戦後は映画館の支配人などを経験し、一旦そばの世界から離れます。
昭和23年頃には日本工業倶楽部の例会でそばを打つようになり、25年頃から新宿「馬上杯」で支配人をつとめます。この時に陶芸家・加藤唐九郎、作家・深沢七郎らと知り合いました。
昭和29年4月に栃木県足利市にて一茶庵を再開します。
これは以前、日本工業倶楽部の例会でそばを打っていた関係で同倶楽部のメンバーだった足利市長・木村浅七の要請によるものでした。ここに後年「足利詣で」という言葉も生まれた足利一茶庵が誕生したのです。 その後昭和36年に西神田、38年に浜松、39年に桐生、44年に宇都宮と支店を息子・娘に任せる形で開店します。
さらには後進の指導、手打そば技術の普及にも力を入れ、昭和48年には当教室の原形となる「日本そば大学」を 開講します。
上野の東天紅でおこなわれていた「東天紅料理学苑」の講座のうちのひとつとして食味評論家の多田鉄之助と共に開講しました。(その後は健康上の理由により講座は終了しますが、次男・片倉英晴が後を引き継ぐ形で昭和60年「一茶庵手打そば・うどん教室」を開講します。)
昭和58年にはこれまで自身が培った技術のすべてを記した「片倉康雄・手打そばの技術」を刊行。現在ではそばの関連書が多数刊行されていますが、当時としては大変珍しいそばの技術書でした。
平成7年9月10日足利市日赤病院にて死去。享年91歳。
翌年には生前創作された陶器・漆器・そば道具・書などの作品を集めた「友蕎子片倉康雄遺作展」が開催されました。
※文中敬称略 参考:蕎麦と生きる(岩崎信也著・柴田書店) 片倉康雄・手打ちそばの技術 (旭屋出版)
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1985年に「一茶庵手打ちそば・うどん教室」としてスタートしてからは場所を変えながら、1999年より現在の横浜にて開講しています。そば教室のパイオニアとしてこれまでに多くの卒業生を輩出し、全国でご活躍されています。
創業者・片倉康雄は自身が異業種から、そして短期間の名ばかりの「修業」で開業だったために当初は苦労しました。その経験から習得に長い年月を必要とする「経験」や「勘」に頼らない数字などを活かした形で技術を習得することを確立させました。
一茶庵手打ちそば教室でもそば打ちや汁を作る際には、このように具体的な数字などを使い未経験者の方でも短期間で覚えやすい内容となっています。